目ずらし記事

mezalaのブログ

「さあ…」が気になる

めずらしきこと。
最近,家族の「さあ…」という感動詞がひどく気になるようになってきた。
もともとは妻が相手の意見に対して同意も否定もしないという場合,特に否定しにくい相手に対して,同意できないときの曖昧な表現として頻用されていたようなのだが,しばらく前から娘が語気荒く「さあ」(音感的には「ッサァーッ」に聞こえる語頭破裂音がありかつ伸ばす)を頻発するのが気になるようになった。「気になる」と言うより「気に障る」に限りなく近い。何故なら,語気が荒ければ絶対に否定の表現に聞こえるからだ。
言葉というのは,言葉そのものよりも発した状況の印象の方が伝わりやすい。特に差別用語などで顕著である。差別用語の一部(ある意味では大部分)は,元々差別用語ではなかった普通の言葉が,使用される対象が相当限定されるときに差別用語として一人歩きしてしまった結果だ。
前述の「さあ」も,今や自分の中では曖昧表現から限りなく否定表現に近付きつつあるのである。
そして最近の「さあ…」において顕著なのが,相手の質問(意見ではなく)に対する無関心の表明に頻発されるケースが増えてきたと感じることだ。自分が特別興味のないバラエティ番組のゲスト出演者を見て「誰?」→「さあ…」,ある特定社会を舞台にする映画で主演する俳優を見て「最近,××というと○○なのか?」→「さあ…」という具合である。関心がなければそう表明すれば良いのに「さあ…」と言われると,それらに対して微かな関心を持った自分の興味の方向を全否定されているように感じる,取りも直さず自分の人格を否定されているように感じるというのは被害妄想だろうか。

「さあ」という感動詞の従来の用法としては,(1)うながし,またはなじる声。(2)驚き・喜びまたは困った時の声。(「江戸語の辞典」前田勇編)の2項目で「広辞苑」第4〜6版も同じである。これにためらいや否定的な気持ちを表したり、即座の返答を避けたりするときに発する語。(「デジタル大辞泉」[goo辞書])という意味が加わったのは,梶井基次郎「ある崖上の感情」を出典とする用例であり,つまり昭和初期以降ということになるだろうか。かなり新しい表現であることは確かなようである。
あまり頻用されて気分を害したので,そういう言い方はやめたらどうかと言ったら,自分の質問に妻は答えなくなった。何故答えないのか問い詰めると,「さあ…」をやめろと言われて喋れなくなったと言うのである。
妻や娘が「さあ…」を頻発するのは,疲れている証拠なのではあるまいかと思う。そのようなストレスの原因になっているのは明らかに自分の言動なのだと思うと,気が重くなって今度は自分が口をきけなくなる。いかにも躁から欝に移行してゆく過程を想像し得るわけで,それ以上考えたくなくなって半密閉型のヘッドフォンを装着し,無言でPCのキーボードに向かった。そして「潜入探偵トカゲ」を観るふりをして座椅子で寝た。さらにそのまま居間に放置されて丑三つ時に目が覚めた。
体調が悪くなって早退してきたのに,余計に悪化させるようなことをやっている自分が腹立たしくなってくる。土日の仕事に備えて金曜日は休むかもしれないと部下に言っておいたことが,あまりその気はなかったのに本当になってしまいそうだ。なにをやっているんだ,俺は。